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横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1533)
今回は、囲碁AI「アルファ碁」を開発したデミス・ハサビス(41歳)についてです。 「アルファ碁」を開発するのは、デミス・ハサビス氏が率いる、イギリスにある Google DeepMind という会社です。元々 DeepMind というスタートアップでしたが、2014年にGoogleがおよそ700億円で買収しました。現在200人程の研究員が人工知能を研究しています。この研究所で、汎用目的で使える機械学習の開発をしています。汎用目的なので、複雑なシステムでも使えるし、加工されてない入力資料から自ら学習していくことも可能です ハサビス氏は1976年にロンドンで生まれます。経歴を見る限り天才ですね。 4歳からチェスを始め、6歳でロンドン U-8大会のチャンピオン、9歳で英国のU-11チームのキャプテンを務めた。13歳で同年代で世界第2位のチェスプレーヤーとなります。 15歳でケンブリッジ大学 コンピューターサイエンス学部の試験に合格。 卒業後、ライオンヘッド・スタジオというゲーム会社へ就職し、1年後にエリクサーを立ち上げて会社は60人のスタッフが働くまでに成長。一定の成功を収めます。 ここからさらなる転機を迎え、認知神経科学の博士号を取るために、ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジへ通い、記憶と想像の研究に取り組みます。 彼の論文は2007年に、Science誌が選ぶ10大ブレークスルーに選ばれます。 その後、同大学のギャツビー計算神経科学ユニットで計算神経科学を学びながら、MITとハーバード大学で客員研究員として勤務します。 2011年、ピーター・ティールに筆頭投資家になってもらい、ディープマインドを設立。テスラのイーロン・マスクも出資しています。 囲碁は終局までの手順が複雑なので、チェスや将棋とは違って、まだ人間が有利と言われていました。人間が負けるのに、あと10年はかかると言われていたんですよね。 でも負けちゃいました・・人工知能の進化の速度恐るべし。 終局までの手順は、チェスは10の120乗、将棋は10の220乗、囲碁は10の360乗通りあります。 今までの人工知能は、CPUの計算能力を生かして、ある局面から終局までの手順を計算することによって人間を打ち負かしてきました。チェスや将棋はこの手法で人間に勝ってきたのです。 でも囲碁の手順は複雑なので、今までは計算では追いつきませんでした。 そこで、今回人間に勝利した AI「アルファ碁」は、CPUの処理速度の進歩以外の方法を取ることになります。それがディープラーニングです。 ディープラーニングの特徴は、 • 全ての手順を検討しない • 人間と同じように過去のパターンを学習 これにより、最もいい手を経験から選び出します。 囲碁も勝てなくなると、ゲームにおいて人間は人工知能にかなわないということになります。 • 1997年にチェスの世界王者を破ります。 • その後、2013年に将棋のプロ棋士に勝利しました。 • 今回、2016年に囲碁も人工知能が勝利します。 人工知能は、GoogleやAppleが推し進める自動運転の技術にも使われます。                                                                                                     わたし(横田)は、41歳のハサビスが人工知能に興味をもって、囲碁AI「アルファ碁」を開発したのは、イギリスにある Google DeepMind という会社です。そして2014年にGoogleがおよそ700億円で買収したのです。現在200人程の研究員が人工知能を研究しています 11歳のとき、ゲームをつくるためにコモドール社の「Amiga」を買ったハサビスは、地元の総合大学クライスツ・カレッジ・フィンチリーで初めて人工知能に出合ったのです。「チェスはAmigaに学ばせるには複雑すぎたので、オセロゲームを行う人工知能のプログラムを書いたんです。そいつはぼくの弟を負かしました」 30年前、人工知能に出会い、コモドール社の「Amiga」でオセロゲームの人工知能と弟を対戦させ見事に勝利したのです。 17歳のとき、ハサビスは数百万の販売数を誇る人気ゲーム「テーマパーク」のプログラムを書き、大学の学費を稼ぎながら、「人工知能はこれから劇的に進化する」という考えを強めていったのです。     「人生のなかで、グーグル級の会社をつくることと、究極の人工知能を開発することの両方を行う十分な時間はない、とわかったんです。数十億ドルのビジネスをつくりあげることと、知性を解明すること。将来振り返ってみたときに、どちらがより幸せだったと思えるのだろう? それは簡単な選択でした。」とハサビスは言ったのです。わたしは、イギリスで生まれた「アルファ碁」と、日本で開発した「Deep ZEN Go」が1年後対戦することを願っています。
| 経済 | 04:38 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1532)
今回は、ウィキリークスのジュリアン・アサンジ氏についてです。著者は、「私は東京都内で一人暮らしを満喫している、35歳の女性です。私の得意なことは、英会話です。」ということです。 ジュリアン・アサンジ(Julian Paul Assange, 1971年7月3日生)は、1971年、オーストラリアにある小さな島で生まれました。ヒッピーのような、ボヘミアンのような自由奔放を求めた両親を持ち、その両親がアサンジ氏の幼い頃に離婚してから転居を繰り返すようになります。母親に連れられて引っ越しを繰り返し、転校した数は16才までに37回にもなったということです。当然、そのような状況で、若いジュリアンは友達を作ることはできませんでした。 彼が小学生の時分に、ホームコンピュータの先駆けとなった「コモドール64」を購入してから、バーチャルな世界に身を置くようになります。幼いジュリアンにとって、この小さなコンピュータは、どこへ行こうと自分のそばにいてくれる親友となったのです。この頃から、ジュリアン・アサンジ氏のコンピュータ人生、そして一定の居住地を持たない旅の人生が始まったといえるでしょう。 彼は16歳の誕生日を迎えた時、ついにモデムを手に入れました。時代はまだ80年代終わりで、ホームコンピュータが全く浸透していない頃のことです。これは、彼が初めてネットワークで世界と繋がったことを意味する、人生最初の転機と呼ぶに相応しいでしょう。アサンジ氏には、並外れた知能指数があると言われています。その抜群の頭の回転でコンピュータのシステムを網羅し、やがて天才ハッカーへと変貌を遂げていったのです。ジュリアン・アサンジは、コンピュータサイエンスにおける抜群の感性の鋭さで、瞬く間にハッキングのスキルを独学で身につけていきます。 アサンジは「メンダックス」というニックネームで、ハッキングの世界で知られていきます。最初のハッキングの成功は、オーストラリアの電話会社の「ミネルバ」というシステムへの侵入で、その後は親しい二人のハッカー仲間と共に活動していきます。メンダックスが初めて世界で注目されたのは、1989年、NASA宇宙局システムへ侵入したときのことでした。危険な核物質を11キロも詰め込んだスペースシャトルの打ち上げを妨害したのです。これは、その前に、実際に核物質を積んだスペースシャトルが発射後すぐに分解するという悲惨な事件があり、それが再び起こることを危惧する故の行動でした。つまり、興味本位のハッキングとは異質の、リスクを回避するという純粋な目的があってのことだったのです。アサンジは、ハッキングによって、金儲けをしようとは一度も考えたことはなく、むしろ、ハッキングすることによって得る「情報」の価値と質を重視し、ハッキングで得た情報で正義を実現しようとしていました。世界に衝撃を与えられるような情報で、ということです。この時点で、既にウィキリークス創設への方向性は定まっていた、と言われています。 アサンジ氏には逮捕歴があります。1991年、カナダの電話会社のシステムに侵入していた時、偶然システム管理者に遭遇したことがきっかけで身元が割れたのです。3年の裁判を経て有罪になりましたが、実刑には至りませんでした。しかし、精神的なダメージは相当大きかったといいます。いっときはコンピュータに全く触れることがなかったのですが、気を取り直し、新たな活動に踏み切ります。それが、プロバイダー「サバービア」の立ち上げです。「サバービア」は、競合相手が有料でサービスを提供しているのと相反し、一環して無料でサービスを提供し続けていますが、その場所には、サービス提供開始当初から、いわゆる企業や公機関の「インサイダー」たちから、様々なリーク情報が寄せられるようになります。どこも扱いたがらないような危険な情報を、サバービアは全面的に受け入れました。 そのことで、「ハッキングというリスクを冒して情報を入手するのではなく、情報を手に入れるためには沢山のインサイダーを抱えるほうが効率がいい」ということをアサンジ氏は学びます。「インサイダーを沢山抱えて情報を得る」これは、まさにウィキリークスが現在ある姿です。 アサンジ氏が自身の政治理念や情報公開のやり方を決定づけた人生の転機は、まさにサバービアでの経験そのものでした。アサンジ氏は、数々の政府レベルの機密を得ることで、その後の活動方針を徐々に確立していきます。そして自分の思想を最大限に反映させて活動すべくネットワーク「ウィキリークス」の構想を固めていきました。彼の幼少期を振り返ると、その人生は旅の繰り返しでした。 アサンジは、ウィキリークスでの活動のため、世界各地を放浪し続け、彼のその人生は人々によく「City to city, country to country"(街から街へ、国から国へ)」と表現されます。その中で、沢山のコネクションをつくり、また沢山の協力者を得て、組織作りをしていったのです。多くのハッカーやプログラマーが、彼の政治意識に賛同し、ウィキリークス設立に携わるのですが、その中でも最もアサンジ氏が尊敬し、信頼していたのは、ダニエル・エルズバーグ氏(ベトナム戦争の詳細を内部告発して、戦争を早期終了させた元軍人)です。またウィキリークスのスポークスマンとして活躍したダニエル・D・ベルク(現在はウィキリークスを脱退)は元々会社勤務のプログラマーでしたが、アサンジ氏の活動に賛同し、最終的には自分の勤務先を退職し、ウィキリークスの活動に専念するようになります。 こういった力強い協力者とボランティアに囲まれ、2006年にウィキリークスを設立、ドメイン「wikileaks.org」「wikileaks.info」「wikileaks.cn」も取得し、組織としての活動を開始したのです。現在アサンジ氏は表立ったメディアでの活動は少なくなっています。2010年末に、婦女暴行の容疑でロンドンで逮捕、その後保釈され、現在ではロンドン郊外のとある場所に、身を潜めるようにして生活していると言われています。 2011年1月には元ユリウス・ベア銀行(スイス)のルドルフ・エルマー氏と共に、不正融資、脱税などで得たお金をスイスの銀行口座に隠し持つ顧客のリストが、エルマー氏からアサンジ氏に渡りましたが、それがメディアの前にアサンジ氏が現れた一番最近の映像だと思います。2010年末、アサンジ氏は多くの場所に姿を現し、身の潔白を主張し続けていました。アサンジ氏は、政治理念を決して曲げることがなく、ウィキリークスボランティアとの話し合いにも一切妥協しない人物であると言われ、議論が加熱すると、「ウィキリークスは僕が作ったベイビーで、僕の全てなんだ。僕が全ての決定権を持って何が悪い!?」と感情的になり、わめき散らすといいます。そういう感情の起伏をコントロールできない部分、自分と対立する意見に対して排他的に振舞うところなどが、回りにいる人たちを失意に陥れ、ウィキリークスを去っていく人が後を絶えない状況が続いています。組織として今後運営を続け、業績を出し続けるために、ウィキリークスとアサンジ氏は、今まさに正念場を迎えています。                                                                                        わたし(横田)は、アサンジ氏とは20歳年上なのですが、わたしも27歳のときにホームコンピュータの先駆けとなった「コモドール」を購入したのです。それは、ディスプレイと本体とキーボードが一緒になっているものでした。わたしもそれがきっかけになって、コンピューターの世界に入ったのです。わたしは、「経営とコンピューター」という社是を掲げました。アサンジ氏は、16歳になってモデムを手に入れたのです。「彼が初めてネットワークで世界と繋がったことを意味する、人生最初の転機と呼ぶに相応しいでしょう。アサンジ氏には、並外れた知能指数があると言われています。その抜群の頭の回転でコンピュータのシステムを網羅し、やがて天才ハッカーへと変貌を遂げていったのです。」 アサンジ氏は、もうすぐ46歳になります。アサンジ氏は、世界の善悪をウィキリークスで偉大なる神の使いとして役目を果たしてきました。そして、アサンジ氏は、今まさに正念場を迎えようとしています。ウィキリークスがこのまま神の使いとして役目を果たすことができるかどうかです。
| 経済 | 04:28 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1531)
今回は、LITERA「総理のご意向を文書は本物」からです。 本サイトが報じた通り、今日発売の「週刊文春」(文藝春秋)が元文科省事務次官・前川喜平氏のインタビューを掲載していた。タイトルは、ずばり〈「『総理のご意向』文書は本物です」文科省前事務次官独占告白〉。 本サイトでは、読売新聞が22日の朝刊で前川氏の「出会い系バー通い」報道が「官邸による加計学園問題の実名告発ツブシの謀略」であることを伝え、さらに官邸が「週刊文春」と「週刊新潮」の両誌にも出会い系バー通い疑惑をリークしたものの、「どちらかの週刊誌が前川氏の言い分を全面的に掲載し、官邸の謀略の動きを暴く」と報じたが、その通りとなったのだ。 「週刊文春」の記事は、文書では見えてこなかった省庁間の子細なやりとりや経緯が前川氏によってあきらかにされており、国家戦略特区による獣医学部新設がいかに加計学園ありきで進められたのかを裏付ける証言になっているという。 「『週刊文春』は、前川氏の告白を6ページにわたって紹介。そのなかで前川氏は、タイトル通り、一連の文科省作成の文書が『本物』であると断言しているのはもちろん、前川氏自身もいくつかの文書を保管していることや、それらを作成した担当セクション名やどういうシチュエーションで前川氏に渡されたのか、さらには『総理のご意向』と内閣府から突きつけられ、プレッシャーを感じたことなどを語っているそうです」(週刊誌関係者) また、前川氏は読売新聞の「出会い系バー通い」疑惑にも言及し、その事実を認めた上で“違法な行為はしていない”と話している、という。 一方、「週刊新潮」のほうは、問題の「出会い系バー」で取材を行い、前川氏の買春疑惑を報道。しかし、決定的な証拠などは書かれておらず、逆に読売の情報元は官邸であり、下半身スキャンダルによって前川氏に報復するとともに、前川氏の実名告白を報じないようマスコミを牽制する目的であったことを報じているという。 「リテラが記事に書いていたように、『週刊新潮』も読売の露骨な記事を見て、官邸の情報にそのまま乗っかることを避けたようですね。あと、前川氏の出会い系バー通いは事実だったようですが、“未成年を買春した”などの違法な話は出てこなかったらしい。これでは記事になりませんからね」(同前) そして、この「週刊文春」の前川氏の告白や、「週刊新潮」の路線転換を受けて、前川氏の実名証言をつぶしていた新聞やテレビの空気も変わりつつある。実はいま、前川氏のもとには新聞、テレビの取材が殺到しているのだという。 前川氏の代理人や知人を通じたアプローチはもちろん、世田谷区の住宅街にある前川氏の自宅に行ってみると、多くの新聞、テレビの記者が入れ替わりやってきて、外出中の前川氏が戻ってこないかチェックしていた。ちなみに、新聞は読売をのぞく全社、テレビもテレビ朝日にTBS、フジテレビが取材に動いているという。 「もちろん、いま、マスコミの目的は読売がやった前川氏の“出会い系バー通い”でなく、文春と同様、『“総理のご意向”文書は本物』と証言してもらおうというものです。NHKやフジテレビなんて、前川氏のインタビューまで収録しながら、官邸の圧力で潰されてますからね。現場には相当不満がたまっている。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』とばかりに、各社が一斉に前川証言を報道する可能性もある」(全国紙政治部記者) しかし、このメディアの動きを官邸が黙って見ているわけがない。「いままで見たことがないくらいの、それは凄まじい発狂ぶり」(官邸担当記者)で、マスコミ各社の上層部から官邸記者にいたるまで恫喝しまくっているという。 しかも、その際、官邸幹部らはこんなセリフをちらつかせているのだという。 「前川がパクられたら、どうするつもりなんだ。犯罪者の証言を垂れ流したことになるぞ」 どうやら官邸は前川氏を口封じにために逮捕するつもりらしいのだ。15年前、検察の裏金を実名告発しようとした三井環大阪高検公安部長(当時)が逮捕されたのと全く同じことが再現されようとしている。 「読売の記事や『週刊新潮』の取材からも出会い系バーの問題では逮捕なんてできそうにないけれど、なりふり構わない安倍官邸のこと、でっち上げでもなんでも仕掛けてくるでしょう。それで、各社とも上層部がまだ首を縦にふらないらしい。前川氏も警戒して弁護士をつけ、一旦、姿を隠してしまった」(文部科学省関係者) 前川氏は不当逮捕されないためにも、むしろ積極的にマスコミの取材に応じるべきだが、問題は新聞・テレビだ。このまま官邸の恫喝に屈するのか、それとも撥ね返すのか。──その結果は明日の新聞や夜のテレビ報道で判明することになるだろうが、このまま官邸の圧力に負けて言いなりになっていいわけがない。 そもそも今回の内部文書の出所は複数あると見られており、今後もどんどん「証拠」が出てくることは必至だ。事実、きょうは民進党が、国家戦略特区諮問会議が獣医学部新設を認めた昨年11月9日の前日に文科省でやりとりされていたメールのコピーを公開。そこには「大臣及び局長より、加計学園からに対して、文科省としては現時点の構想では不十分だと考えている旨早急に厳しく伝えるべき、という指示があった」と記されており、獣医学部の設置条件に合うように文科省が加計学園に“特別な入れ知恵”を行っていたことが判明した。 また、同じく本日、安倍首相に加計学園から金が渡っていたことも発覚。日刊ゲンダイによると、安倍氏は過去に加計学園グループである学校法人広島加計学園の監事を務めており、1999年度分の「所得等報告書」によると、その報酬として14万円ほどを受け取っていたと報じている。 掘れば掘るほど疑惑が山積みとなり、問題が浮き彫りになっていく加計学園問題。そのなかでも、文科省事務次官という官僚のトップとして加計学園の獣医学部新設にかかわってきた前川氏の証言は極めて重要であり、こうした内部告発者に報復がくわえられるようなことは絶対にあってはならないだろう。下劣な官邸に対し、マスコミには徹底抗戦を期待したい。                                                                                         わたし(横田)は、日本の総理大臣安倍首相が官僚を使って、マスコミに圧力を加えているのをどうにも我慢できないのです。いわば不都合な事実や人物は徹底して謀略を仕掛けて潰し、安倍政権の陰湿でグロテスクとしかいいようのないやり口を見ることができます。疑惑をひとつずつ暴いていけば、その蟻の一穴から巨大ば壁が崩れる可能性は十分ありうるのです。安倍首相の次の答弁は決定的です。 「彼(加計理事長)は私の友人ですよ。ですから会食もします。ゴルフもします。でも、彼から私、頼まれたことはありませんよ、この問題について。ですから働きかけてはいません。これ、はっきりと申し上げておきます。働きかけていると言うんであれば、何か確証を示して下さいよ? で、私はね、もし働きかけていたのなら、私、責任取りますよ。当たり前じゃないですか」 そして官邸の圧力に屈しなかった前川氏は、世界的な産業用冷凍冷蔵機器メーカー『前川製作所』の御曹司で、妹は中曽根弘文元外相に嫁いでいます。父親は前川昭一です。当事者の前川喜平さんは、前川製作所顧問で有名な前川正雄さんと伯父に当たります。しかも「官邸のコントロールが利かない人物」(前出の幹部)なのです。これから安倍首相辞任までこの加計学園問題と森友問題を追及しなければなりません。
| 経済 | 03:59 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1530)
今回は、東洋経済に2年前に掲載された野口悠紀雄氏の「安倍政権の本質は、戦時経済への回帰である」からです。 国民生活を守るには、物質的な備えが必要です。そして、その背後にあるのは、産業の生産力です。日本は、戦後の復興と高度成長の過程を通じて生産力を増強し、豊かさを実現してきました。それが実現されたのは、日本人が真剣に働いたからです。 しかし、1980年代頃から、日本人の考え方が変化してきました。株価や地価が上昇すれば、働かなくとも、投機をするだけで巨万の富が得られるという錯覚が生じたのです。 そうした考えがバブルを引き起こしました。日本人は、その考えが間違いだと思い知らされたはずです。 ところが、この数年、そうした考えが再び広がりつつあります。円安によって、企業の利益は労せずして増加しました。それによって株価が上昇し、「何もしなくても、このままで日本経済は回復する」という、根拠のない期待が一般的になりつつあるのです。 なぜ政府が賃上げに介入するのはおかしいのか。 さらに、安倍政権は、「産業力増強という裏づけがなくても、高齢化社会を乗り切れる」という幻想を国民に抱かせています。しかし、高齢化社会を乗り切るためには、生産性の高い新しい産業が日本にも登場することがどうしても必要なのです。 では、安倍政権の経済政策によって、それが実現できるでしょうか? 安倍内閣の経済政策の本質は、国の介入を強める方向のものです。本来は民間企業によって決められるべき賃金決定に介入して、賃上げを図ろうとすらしています。 また、中央銀行の独立性に対して否定的な態度をとり、日本銀行による大量の国債購入を通じて国債市場を支配し、金利を異常に低い水準に押しとどめています。 他方で、自由な市場活動のために不可欠である規制緩和は、ほとんど進捗していません。 このような経済政策では、新しい産業の登場を期待することはできません。なぜなら、新しい産業は、市場の競争によって生まれるものだからです 「政府の指導でなく市場が重要」ということは、アップルやグーグルなど、いまアメリカ経済を牽引している企業が、政府の援助で生まれたものではなく、市場の競争の中から生まれたことを見ても明らかです。 安倍政権はむしろ戦時体制に回帰しているのだ。 ところで、「経済活動に対する政府の関与を強める」という考えは、戦時中に岸信介など「革新官僚」と呼ばれた人々が確立した、戦時経済体制の基本思想と同じものです。 安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を唱えていますが、その経済政策の基本的性格は、「戦時経済体制への回帰」なのです。 しかし、1980年代頃から、基本的条件が大きく変化しました。中国が工業化し、IT(情報通信技術)が発展したために、市場経済の有効性が高まったのです。逆に言えば、40年体制的な経済の有効性が失われたのです。 1980年代後半のバブルは、そうした条件変化にもかかわらず、従来の経済体制を維持しようとしたことの結果であると解釈することができます。1990年代以降の日本経済の長期的停滞も、基本的には、日本人が40年体制的な考え方(大組織依存、政府依存)から抜け出せないためにもたらされているものです。 「政府が経済成長を主導する」という考えは、現代の世界ではアナクロニズムになっているのです。安倍内閣の経済政策に欠けている最大のものは、この歴史認識です。 正しい歴史認識を持ち、40年体制的な考えから脱却することができるかどうか、それが日本の未来を決めるでしょう。                                                                                 わたし(横田)は、野口悠紀雄さんの言う通り、安倍政権が「政府が経済成長を主導する」という歴史認識に真っ向から反対します。安倍政権は「戦後レジームからの脱却」と言っていますが、その基本的性格は、まさしく「戦時経済体制への回帰」なのです。安倍首相は、当初から外交政策を派手にやっていますが、その内訳は大企業の経営者と一緒にセールスをやっているだけです。ところが安倍首相自らが動いても、セールスは成功しないのです。安倍首相が考えている外交と、世界が動いている情勢とは全く歯車が合っていないからです。その上に、自分の権力を使って森友学園と加計学園に便宜を図る行為は、本質的には収賄やあっせん収賄と同じなのです。韓国の朴槿恵前大統領と同様の身内への利益誘導であり、安倍首相には辞任に値する問題です。安倍首相が早く辞めないと、世界で起きている大変革の時代から取り残されそうです。
| 経済 | 05:37 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1529)
わたし(横田)は、毎週1回本屋に行きます。今年になって経済・経営・科学関係の本で読みたいのがないのです。パラパラとページをめくるのですが、これを読もうとする本がまるでないのです。これは、今の時代と関係がありそうです。時代がどうなるのかわからないときには、読もうとする本がないのです。例えば、未来の人工知能はどうなるのかというテーマで良い本はないかと探すのですが、今まで読んだ松尾豊さんの本を除いて良い本は見つからないのです。人工知能(AI)は、2010年以降でDeep Learningを使ったものと定義してほしいと思います。さもないと、AIの意味がわからなくなってしまうのです。インターネットで、LITERAとか英語の記事(Googleで翻訳する)について良いものが多々あります。Googleで翻訳した文章を、去年暮れと今年の5月で比べると、その違いが一目瞭然にわかります。文章が日本人が書いたように自然になっているのです。これは、AIの仕業です。わたしは、今年から来年にかけて大変革の時代だと言っていますが、その要点をまとめてみます。                                \こΔグローバルゼーション(自由主義)から反グローバル化(保護主義)になる。     ∪こΔ涼羆銀行が金融緩和を進めて来たが、これが終わって金融引き締めに向かう。      世界の株式市場規模が小さくなる。                            だこΔ良挈義悗凌瑤小さくなる。                             ダこΔ龍睛算駛楴腟舛禄わった。                             わたしは、2007年から大変革の時代がいずれやってくると言っていました。その理由は、サブプライムローン危機とリーマンショックで、世界の中央銀行がなんと金融緩和を始めたからです。世界中の企業が負債に覆われたので、それを早く清算せよというのが中央銀行が取る方法だったのです。それを、正反対の金融緩和にするというのです。そうすると、企業の負債は借入金の増減をするだけで生き残るのです。ところが、世界の企業の負債は減るどころか増えるのです。その限界がとうとう近づいたのです。トランプ大統領が、自由主義から保護主義へ大きく舵を切りました。今までは日本も企業の輸出入を積極的に進めてきましたが、これからは米への輸出はダメで、米の雇用者数を増やす現地生産だけを求めてきました。トヨタを始め協力企業は大打撃を受けます。株式市場規模がものすごく小さくなります。来年になると、日経平均株価が5000円くらいになりそうです。富裕層も、株価(資産)が4分の1になると、負債が逆に大きくなります。そうなると富裕層の資産は借入金(負債)に変わることが多いのです。資産が100あって、負債が70あったとします。利益が30あります。ところが、資産が25になったら、負債が70のままでも損失が45になります。これが、富裕層が損失抱える源になります。「お金がなければ何もできない」と考える人々から、「お金がなくとも生活ができる」人々が増えてきたのです。それには、地方に行って、半農半Xみたいにすると、都会の生活よりも半分以下の支出で済むようになります。食べ物と住む場所が都会に比べて、すごく安価になります。「お金がすべて」と考える人々が確実に減っているのです。一方トランプ大統領は、ドルの価値が今まで高すぎるのでこれからはもっと低くするべきだと言っています。低くしないと、米の貿易赤字がなくならないからです。反対にFRBは、ドルの価値は今以上に高くすべきだと言っています。そのせいでドル円相場が不安定なのです。しかし、ドル円相場は来年に向かって1ドル50円に向かいそうです。もう、大変革の時代に入っているのです。日経新聞が大変革の時代がやってきたと書く時は、もう大変革の時代が終わっている時なのです。          そのころは世界の指導者が今とはまったく変わっています。これから未来を知るには、藤原直哉さんの講演が一番良いです。政治経済科学を知るために藤原さんを除いては、良い人が見つかりません。                                           対談!経営語録 2017年5月10日                              経済アナリスト 藤原直哉さん                               http://www.ecg.co.jp/blog/media/taidan20170510.mp3                       38分間                                              <明確な経済政策を言っているのは、世界中でトランプ大統領のみ>              <ロシアが生みの親:北朝鮮、アメリカが生みの親:韓国>                  <冷戦の最後、極東での棘が抜ける時>                           <新しい秩序に向けての動きはじめ>                           <6月の解散ありえる!?可能性あり!?> <この10年間の金あまりによる経済界の下剋上の始まり>                   <国際金融資本vs. トランプ大統領の見ごたえ>                       <国破れて山河ありの日本>                                <孤立するイスラエル、中東最終局面のイスラエル攻め>                  
| 経済 | 04:00 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1528)
今回は、スノーデン氏が暴露した機密文書です。 「米が日本にスパイ装置提供」 「米メディアが機密文書公開」 米ジャーナリストらが開設したニュースサイト「ジ・インターセプト」は24日、元米中央情報局(CIA)職員のスノーデン氏が暴露した機密文書のうち、米国家安全保障局(NSA)と日本の情報機関が長年にわたって協力してきたことを示すとされる13文書を公開しました。 そのうち2013年4月の文書は、NSAが日本側に「エックスキースコア」と呼ばれるシステムを提供したと記載。ジ・インターセプトによると同システムは、通常のインターネット利用者が使うほぼ全ての情報を監視・収集できる強力なスパイ装置です。さらに同文書には、米側の長期的な戦略目標から、日本政府職員を訓練し、能力を高める必要があるとも記載されています。 04年4月の文書では、世界中の情報活動に使用されているとされる在日米軍横田基地(東京都)内のアンテナ機器の関連施設の建設費660万ドル(現在の為替レートで約7億2700万円)の大半を日本側が支払ったとされます。 07年3月の文書では、日本側が5億ドル(同約551億円)を負担して最高水準のNSA施設をキャンプ・ハンセン(沖縄県)内に移設。三沢基地(青森県)の傍受システムがアフガニスタンやパキスタン、インドネシアの対テロ作戦に活用されたとの記述もあります。 英国メディアの10日付の報道によると、エドワード・スノーデン元NSA(米国国家安全保障局)職員は「iPhoneの電源を切っても、NSAの職員がマイクを通じて盗聴することができる」と示した。スノーデン氏が暴露した情報は専門家に実証された。 スノーデン氏によると、米国家安全保障局と英国政府通信本部(GCHQ)が共同で新技術を開発してきた。この技術で利用者が何も知らない情況の下、電源を切っても、マイクを通じて関係情報を盗聴することができるという。 スノーデン容疑者はロシアの首都モスクワで「NBC Nightly News」のインタビューに応じ、内容の一部が27日に明らかになった。それによると、スノーデン容疑者は「スパイとして訓練を受け、海外でも活動した」と述べた。 スノーデン容疑者は自身が「技術専門家」だとし、「米当局のためにシステムを設置していた」と説明。その上で、自身に対して「ランクの低いシステム管理者で、何を言いたいのか分かっていない」との批判があるが、それは正しくないとの考えを示した。 米国家安全保障局(NSA)による電話通話記録の大量収集・保管を終了する方針を決めたと報じた。 近く議会に法案を提出するとしている。NSAによる組織的な通話記録収集はやめ、記録は電話会社で保管される。NSAは、裁判官の許可を得た上で、特定の通話記録を入手する方法に変えるという。複数の政府高官の話として報じた。                                                       わたし(横田)は、マスメディアの発表よりも小さなニュースサイトである、スノーデン氏が暴露した機密文書の方が重要度が高いと思います。米国のCIAやNSAが、日本政府職員を訓練して、通常のインターネット利用者が使うほぼ全ての情報を監視・収集できる強力なスパイ装置を開発したのです。このような「通常の利用者がネット上でやりとりするほぼすべて」を監視できるシステムが、今のところ、どのように使われているかは不明です。もし共謀罪が成立すれば、このようなシステムが全面的に活用され、「ネット上でのやり取り」が監視されることになります。すでに、街中には数多くの監視カメラが作動しています。通信傍受法の「改正」によって盗聴の対象が拡大され、知らないうちに通信の内容が傍受される危険性が高まっています。GPS(全地球無線測位システム)も犯罪捜査で使われています。最高裁は令状なしでの使用は違法だとの統一判断を示して歯止めをかけましたが、共謀罪が成立すれば捜査手段として活用することが合法化されることになります。これから1〜2年の大変革の時代に向けて、スノーデン氏が暴露した機密文書が大きな監視の防止に役立つことになります。                                                                次回は、5月12日(金)になります。
| 経済 | 05:13 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1527)
わたし(横田)は、東芝だけではなく、今の大企業の多くが大艦巨砲主義の時代の成功体験に縛られていると思います。未だに20世紀の成功体験から離れることができないのです。21世紀になって、世界の中央銀行が金融緩和政策をやりました。大企業は時価総額を上げるために、例えば株式市場で発行済み株式総数を2倍にして株式単価を2分の1にします。時価総額はその時は一緒なのですが、金融緩和で株主はレバレッジ効果を利用し、受け入れる資金の数倍から数十倍の金額の取引を可能にしたのです。企業が経常利益を上がっていることだけを株主に報告すれば、時価総額は上がっていくことになります。しかし、反対に企業が経常利益を以前より縮小し始めた途端に、株価は大きく下げることになります。それに加えて中央銀行が金融緩和政策を続けられなくなった今日、日経平均株価は下がっていくことになるのです。FRB・ECB・日銀は、バランスシートの合計13兆ドルをどうやって減らすかという量的引き締めを議論しているのです。世界が大変革の時代に入ったのは、日本では日経平均株価や円高が信じられないくらい大きく変化することを示しています。1〜2年以内に、金融資本主義は崩壊します。これからは、企業が利益を上昇したら、上昇した分だけ株価が上がることになります。要するに、日経平均株価はあまり上下しないことになります。金融緩和政策では、株価は利益が30%上がったら、3倍になっていたのです。日本は、世界中で一番多くの債権を持ってます。円高になるのは、そのためです。1〜2年以内に、円高で1ドル50円になりそうです。日経平均株価は、5000円くらいになりそうです。大企業は、時価総額が大きく下がって、これからは長期借入金がものすごく膨らみます。大企業の倒産するところが、いくつか出現しそうです。わたしの知っている人で、会社を辞めて、株式相場で何倍にまで資産を増やしました。その人はこれからどうすれば良いか、相談に来ました。これからは、近江商人が売り手よし・買い手よし・世間よしという「三方よし」の精神を大切にすることが重要だと言いました。大変革の時代に、企業で何もしない経営者が奈落の底に突き落とされるかもしれません。
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横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1526)
今回は『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』牧久著/講談社です。 著者の牧久氏は、日経新聞副社長、テレビ大阪会長を経て、精力的にノンフィクション作品を書いています。 昭和62年(1987年)4月1日午前0時、「日本国有鉄道」は明治5年(1872年)の開業以来、115年にわたった長い歴史の幕を閉じた。 その日、鉄道発祥の地である東京の汐留貨物駅で行われた「SL汽笛吹鳴式」では、戦前に製造されたC56型蒸気機関車が、むせび泣くような汽笛を鳴らし、詰めかけた鉄道ファンは国鉄との別れに涙するとともに、新たに発足する民間鉄道「JR」の前途を祝したのだった。 だが、この記念すべき日を迎えるまでのおよそ20年間、水面下では国鉄関係者のみならず、政治家、官僚、財界人を巻きこみ、友情、憎悪、打算、裏切り、そして連帯という壮絶な人間ドラマが繰り広げられていたのである。 国鉄解体の起点となったのは、1967年のことです。この年、国鉄は開業以来初めて累積赤字に陥ったのある。 「私は60年安保の年に上京して、日経の社会部に入ったのが東海道新幹線開業で国鉄が単年度赤字に転じた1964年。自分の記者生活と国鉄解体への20年がちょうど重なるんですね。 特に累積赤字が表面化し、国鉄が5万人の合理化策を打ち出した1967年以降、労使関係はいよいよ迷走する。これは戦後の下山・三鷹・松川各事件に波及した1949年の9万5000人に次ぐ一大整理で、それまで二人乗務が原則だった運転士を一人にする〈一人乗務〉で浮いた人員を他にまわす、文字通りの合理化でした。 特に運転士の組合である動労は猛反発し、この時、組合側が勝ち取った〈現場協議制度〉が労使の力関係をおかしくし、国鉄崩壊の引き金を引くとは、当時は誰も想像しませんでした」 「現場団交権を意味するこの文言をねじ込んだのが、国労の諸葛孔明こと細井宗一で、以来、国鉄は組合側に人事権すら握られ、車内での内ゲバやサボタージュが横行するなど、異常事態に突入していきます。 私も執行部と労務を両方経験しましたが、労使交渉は9勝6敗の論理と言って、会社か組合どちらかが全勝してもダメなんです。特に国労・動労といえば全国50万人の国鉄マンを束ねる一大勢力でした。だからその後磯崎叡(いそざき・さとし)第6代総裁が掲げた〈生産性向上運動〉と事後処理の失敗でさらに混迷を深めた国鉄をめぐっては、組合潰しと分割・民営化が同義語になっていきます」 わたし(横田)は、30年経ったJRの分割・民営化が成功したのかどうか疑問です。民営化の恩恵を受けたのは、本州にある東・東海・西だけなのです。鉄道事業が未だに赤字なのは、北海道・四国・九州です。これらの会社は、これからどう立て直すのか展望が全く開けてません。国鉄は、分割・民営化ではなく、国鉄全体をひとつの民営化する事業が必要だったと 思います。国鉄からJR東海の名誉会長になった葛西敬之氏が自民党の有力政治家とパイプをもちながら、リニア中央新幹線の工事実施計画の認可を受けたことが話題になっています。 超電導リニア技術を高速鉄道に導入するのは初めてで、プロジェクトの総事業費は5兆円を超える見通しです。超電導リニア技術は、東芝製です。しかも、大阪へのリニア延伸は、5兆円どころか30兆円だったのです。わたしは、東芝と同じようにこのプロジェクトが頓挫する可能性が大いにあると考えています。
| 経済 | 04:17 | comments(0) | - |
横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1525)
今回は、ユニクロ柳井正社長の「語られない一族の出自と解放運動」です。 「泳げない人間は沈めろ」 「労働者は年収100万円以下で当然」 非情な言葉を口にする一方、自分はこれといった苦労も努力もした事はない。 日本有数の資産家になった柳井正のユニクロは、その始まりが元非合法組織の構成員で、解放運動とも深い関わりを持っています。 柳井正は事あるごとに労働者を侮辱したり、日本人を批判する発言をしているが、そのルーツは江戸時代の身分制度にありました。                                                              <柳井一族の出自> 柳井正は父親からユニクロの前身「メンズショップ小郡商事」を受け継いだが、元は叔父の「小郡商事」が始まりだった。 柳井の叔父の柳井政雄は日本の部落解放運動の活動家で、解放運動から政治家に転じ、山口県議会議員を勤めました。 中央政界にも人脈があり、山口出身議員の後援会会長をつとめ、総理府同和対策協議会や同和対策審議会委員も勤めた。 実業家としても成功し、38歳で1946年「小郡商事」を創業、弟の柳井等(柳井の父)が洋服事業を担当していた。 1949年に「メンズショップ小郡商事」として独立店舗を開業して1972年に現在の社長の柳井正が入社しました。 柳井政雄の叔父(つまり柳井正の父の叔父でもある)柳井傳一は部落解放運動の先駆けである全国水平社の創設メンバーでした。 全国水平社は1922年に創設された部落解放組織で、江戸時代の身分制度の最底辺に位置した人たちの集まりとされています。 日本の慣習や制度を打ち破る事を信条とし、自然に反政府活動や日本人に批判的な人と協力するようになった。 水平社は水平(平等)より権力を握って日本の支配層を目指す運動に変化し、部落解放同盟に変化していきました。 つまりユニクロとは部落解放同盟の創設に参加した一族が創業した会社であり、柳井一族は筋金入りの部落運動活動家という一面を持っています。 社長の柳井正の数々の反日発言や、日本と日本人を敵視する思想、言動は柳井一族の出自から受け継いでいます。 言うまでもなく現代の柳井正も父や叔父から、解放運動人脈を受け継いでいると考えられる。                                                                                <ユニクロ前史> 1984年に「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」を開店しユニクロになり、直後に柳井正が社長に就任しました。 実質的に「ユニクロ」方式の店舗を始めたのは柳井正だという事が分かります。 創業者で叔父の柳井政雄は、父が部落出身者だったらしく牛馬商を営み、父の手伝いをした後、京都の板前の兄の元で働いた。 だが隣の犬を刃物で傷つける事件を起こして首になり、山口県の炭鉱で働くうちに裏組織の組員になった。 数々の事件を起こした後に23歳で足を洗い、解放同盟の叔父、柳井傳一から資金援助を受けて簡易宿舎を始めた。 これが1932年の事で、当時の500円(現在の100万円相当)を元手に木賃宿、材木商、運送業と事業を広げて行った。 この頃の柳井政雄は足を洗ったとは言っても元組織の一員であり、荒っぽい男達を雇って働かせていたのは想像に難くない。 柳井政雄は1946年に日本社会党公認で山口市議、次いで山口県議会議員に当選したが、むろんクリーンな政治とは無縁な活動をしていた。 非合法組織や部落運動に顔が利き、警察にも通じていて事業で得た金もあり、金権政治を地で行っていた。 選挙で後押ししたのは後に部落解放同盟となる水平社の叔父、柳井傳一だった。 因みに「餃子の王将」を創業した加藤朝雄とユニクロを創業した柳井政雄は共に部落出身で、解放運動を通じた友人だったと言われている。 柳井政雄は貧乏臭い社会党とは合わずに仲たがいし、総理の佐藤栄作から誘われて自民党系で解放運動を始めた。 このように現在「ファーストリテイリング」という名前の会社の始まりは、実は組織の親分と部落解放運動が始まりだった。                                                                  <柳井正の信条「泳げない人間は沈める」> このような一族の遺伝子は柳井正にも脈々と受け継がれていて、日本人への憎悪と日本という国への憎しみは隠しようが無い。 ユニクロはブラック企業として有名だが、その現状はどういう物なのか、元従業員らの告発から知る事ができる。 柳井正は「泳げない人間は沈める」「企業には年収100万以下と1000万円以上の人間しか必要ない」など数々の名言を残して来ました。 柳井の父と先祖は最底辺労働者であり、そこから這い上がるために解放運動をしていたのだが、自分が支配層になると労働者を貶めた。 ファーストリテイリングは『ユニクロ帝国の光と影』という本を告訴したが裁判で敗れ、書いてある内容は事実だと裁判所が認定しました。 ユニクロを批判するマスコミや告発者には、高額賠償金をチラつかせ、批判させないようにしているとされている。 『ユニクロ帝国の光と影』によるとタイムカードを押して退社したように見せかけ、月300時間以上の労働をさせていた。 これに対し柳井正は「人より良い生活がしたいのなら、頑張らないと賃金は上がらない」などと述べ、質問しても話をはぐらかすのが特徴です。 「経営者になれない人間は賃金100万円以下になり、賃金を上げたいなら頑張らないといけない。」が口癖である。 ユニクロでは社員は朝7時に出勤し、夜10時過ぎに退社するのが常態化していて、しかも残業はしていない事にしていました。 ユニクロでは「フルボリューム開店」する事になっていて、開店した時点で棚に「隙間」があったらペナルティを受けたり叱責される。 前日に売れた分を朝10時まで完璧に並べなおさねばならず、朝7時に出社しなければならないという訳です。 勤務中は制服としてユニクロ製品の着用が義務付けられているのに、服は買い取りで店が補助をしたりはしない。 しかも毎日同じ服を着てはいけないので、ユニクロで働くとユニクロをどんどん買わされます。 努力しろが口癖の柳井正は入社した時点で重役であり「賃金を上げるための努力」なる物を自分はしていない。                                                                        わたし(横田)は、ユニクロがなぜブラック企業と言われているのか詳しくは知りませんでした。柳井正社長は、日本よりも世界の市場で勝負するとグローバル化が大切だと言っていました。柳井社長の言葉です。 「僕が若い社員に『海外に行ってくれ』と繰り返し言うのは、本当の意味で経営者になってほしいからです。それができないのであれば、当然ですけど、単純労働と同じような賃金になってしまう」「僕は将来、本当に若者が活躍できる世の中になれば、25歳以上は全員対等に評価すべきだと思っています。(中略)25歳くらいまでに基本的な考え方を決めて、努力を重ねて35歳くらいで執行役員になる。そして45歳くらいでCEOになるのが、正常な姿だと思っています。だからこそ、若いころに甘やかされてはいけないと思っています」 「世界どこでも、やる仕事が同じだったら同じ賃金にするというのが基本的な考え方。海外にも優秀な人材がいる。グローバルに事業を展開するのに、あまりに賃金が違いすぎるのでは機能しない」「日本の店長やパートより欧米の店長のほうがよほど(賃金が)高い。日本で賃下げをするのは考えていない。一方で途上国の賃金をいきなり欧米並みにはできない。それをどう平準化し、実質的に同じにするか、具体的な仕組みを検討している」「(離職率が高いのは)グローバル化の問題だ。10年前から社員にもいってきた。将来は、年収1億円か100万円に分かれて、中間層が減っていく。仕事を通じて付加価値がつけられないと、低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」「我々が安く人をこき使って、サービス残業ばかりやらせているイメージがあるが、それは誤解だ」 「作業量は多いが、サービス残業をしないよう、労働時間を短くするように社員には言っている。ただ問題がなかったわけではなかった。グローバル化に急いで対応しようとして、要求水準が高くなったことは確か。店長を育てるにしても急ぎすぎた反省はある」 柳井社長のように、お金儲けだけに全精力を費やした人は、お金がすべてではないことに気づくには遅すぎたように思います。 柳井社長は、個人財産額で国内1位が孫正義で、2位が柳井正です。今、大変革の時代で、あと10年も経たない間に2人の名前は消えると思います。しばらくすると財産ではなく負債で、二人は苦しむことになりそうです。孫さんは幼い頃ひどい貧乏でした。柳井さんは、昔部落出身ということでした。2人は、それをバネにして、日本よりは世界の市場だとグローバル化を進めて来ました。渋沢栄一の「論語と算盤」は、イノベーターとして数々の難題に挑戦し道を切り開いてきました。柳井さんと孫さんは、お金儲けではなく、社会に対する本当の技術革新が重要なのです。
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横田眞の脳梗塞・甲状腺がんを克服して神通力が宿った・・・(1524)
今回は、安倍家三代を丹念に取材し、「安倍晋三」なるものの正体に迫った『絶頂の一族〜プリンス・安倍晋三と六人の「ファミリー」』を描いた「絶頂の一族」松田賢弥著をお送りします。 <プロローグ ゴッドマザー・安倍洋子を軸にした三代> 11月とはいえ、時にあたたかい陽だまりの芝生の上で坊ちゃん刈りにカーディガンを羽織った二人の幼い男の子の間を、背広姿の初老の男が一緒に駆けっこに興じている。『毎日グラフ』(1956年12月9日号)に載ったスナップ写真の一枚で、男の子は4歳の安倍寛信と2歳の弟の晋三、初老の男は発足したばかりの自民党の幹事長・岸信介である。二人の男の子は、岸の娘・洋子が産んだ孫だった。この時、岸は60歳だった。 都内でも指折りの高級住宅地としてその名が知られる渋谷区南平台。岸が自身の邸宅に隣接する往年の名女優・高峰三枝子の五百坪の土地と屋敷をそっくり借り受け、二軒合わせて自宅兼迎賓館として使い出したのは56年夏のことだ。ヨチヨチ歩きの二人の孫と岸が戯れる芝生は、高峰が映画人らを招き華やかなパーティに酔いしれた場所でもあった。 スナップ写真の中には、口に入れた指をしゃぶる晋三が兄の寛信に仲睦じく寄り添う一枚もある。キャプションにはこう記されている。 「ガランとした(岸)私邸の応接間で遊びに来た孫たちが爐い舛个麑椶帽イなおじいちゃん瓩慮修錣譴襪里鬚泙辰討い 好きな理由は爐い弔發いい發里鬚れるんだもの瓠 ちょうどこのスナップが撮られた頃、父の晋太郎は毎日新聞社を辞め、外務大臣・岸の秘書官に転身。さらに58年、晋太郎は旧山口一区から衆議院選に出馬し、初当選している。 晋三の弟で、三男の信夫が生まれたのは、翌59年のことだった。実は、晋太郎と岸の長女・洋子が結婚する際、「三人目が男なら岸家の養子とする」との約束事が交わされていたという。岸の長男である信和と仲子夫妻に子供ができなかったからに他ならない。 信夫が生まれてすぐ、晋太郎夫妻と信和夫妻に、岸の弟・佐藤栄作(後の総理)が加わって話し合いがもたれた。野上忠興『気骨 安倍晋三のDNA』(講談社)によると、席上佐藤が「晋太郎、本当に出していいんだな」と強く念を押す場面があったという。また、岸も「洋子、無理をしなくてもいいんだからね」と言い、洋子がわが子を手放すことをためらったという話もある。 岸は、自分が中学卒業と同時に養子に出された身だけに、ことのほか孫の信夫を可愛いがった。安倍家へ頻繁に遊びに来る信夫は、洋子を「おばちゃま」と呼んだ。養子に出された事情を知りながら口に出さない寛信・晋三兄弟のことは「おっきい兄ちゃん」「ちっちゃい兄ちゃん」と呼び、彼らの方は「ノブちゃん」「ノブオ」と声をかけて育った。 名門の血脈を守り、絶やさないために養子縁組に依存するこのファミリーに育った晋三。 これまで繰り返されたのは佐藤、岸両家の血が入り混じることだった。その先に、晋太郎が加わることで安倍家の血脈が生まれた。さらに、三男・信夫を岸家の養子に迎える。岸家にすれば血のいわば逆輸入によって血族が保たれたのである。ただ、洋子は、わが子・信夫を養子に出したことを悔いていた。それは、後に信夫が政治家になるにあたり、育ての母・岸仲子の悲劇を生むことになる。 <父母不在の邸宅> 南平台の家は岸の首相公邸としても使われ、60年、戦後最大の騒擾と今もって語り継がれる安保改定阻止闘争のひとつの舞台にもなった邸宅だ。父・岸信介の身を案じる娘の洋子と、寛信・晋三の二人の孫は、連日のように社旗を立てた新聞社の車に乗せられ、裏道から勝手口に抜けて邸宅に入り込んだ。洋子は岸と孫らの情景をこう記している。 「わたくしが子供たちを連れて訪れますと、デモ隊がとり巻いている家のなかで、さっそく父は孫たちと鬼ごっこに興じるのです。また、子供たちからすればデモ騒ぎもお祭りごと、外のシュプレヒコールをまねして『アンポ、ハンタイ!』と座敷を駆け回るのを、(中略)父はただ愉快そうに笑って見ているばかりでした。 さんざんはしゃいだのち疲れて寝入ってしまった次男(晋三)を膝に抱き、晩春の陽差しの下、縁側に坐ってデモ隊の行列をあかず眺めておりました父の後姿が、いまも目に浮かぶようです」(『中央公論』87年10月号「父 岸信介の素顔」) 南平台の邸宅の窓からデモ隊と機動隊の群衆が揉み合う光景に、50年余り経て総理の座につくことになる晋三が6歳の眼で何を見たのかはわからない。 晋三は両親不在の家庭に育った。安保闘争が終息してからも、それは変わることがなかった。晋三自身がこう語っている。 「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』) 洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。 晋三は洋子の愛情、なかでも男の子ならこの時期、誰しもそうだが、母親の温もりを人一倍求めていた。母・洋子への思慕は祖父・岸信介への思いに繋がっていく。「おじいちゃんを褒めれば、お母さんが喜ぶ」という幼少の記憶が、晋三にはずっと残っていたという。 言葉を換えて言うなら、全然家に帰らない晋太郎よりも、祖父・岸信介が晋三の精神形成の上でも「父親」の存在だったように思えてならない。 岸は60年安保を成立させて総理を退いた後、南平台からいったん渋谷区富ケ谷に転居。その後、70年から静岡県御殿場に居を移した。鬱蒼とした杉林に囲まれ、約千六百坪の敷地に、二階建ての瀟洒な屋敷(総面積約百七十坪)が建つ。この豪邸は岸の終の棲家となる。晋三は当時成蹊学園の高校生だった。この頃、岸は晋三のことをこう洋子に語っていた。 「振り返ってみますと、『晋三は政治家になるよ』と最初に予言したのは、父・岸信介でした。当時、父は御殿場に住まいを移していましたが、私たちの住んでいた世田谷の家を訪ねると、『ああ、おじいさま』と言って真っ先にやって来るのは、きまって晋三だと言うのです。『きっと政治の世界に興味があるんだ。あれは政治家になる』と御殿場に帰って、嬉しそうに語っていたそうです」(『文藝春秋』03年11月号「息子・安倍晋三」) 晋三は政治家になると最初に予見していたのが、あの岸信介だったという逸話は興味深い。安保改定を前にした59年には岸家の養子となる三男の信夫が誕生しているものの、岸は名門の血族を継ぐ子として晋三を寵愛していたことが窺えるからだ。 <戦犯の孫と60年安保> その晋三が多感な高校生時代に、安保の自動延長を巡る70年安保闘争が起こっている。反安保統一行動には全国で77万人が参加。また、東大安田講堂の封鎖解除に機動隊が出動した(69年)ことに象徴されるように、ベトナム反戦運動と相俟って学生運動も広がった。 一方、万博が開かれ(大阪・千里丘陵)、入場者数は6421万人余りにのぼった。東京・杉並区で光化学スモッグが発生し、作家・三島由紀夫が東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地内で決起を呼びかけた後、割腹自殺(45歳)を遂げるなど、70年の世情は騒然としていた。この中で晋三は何を考えていたのだろうか。晋三は激したようにこう吐露している。 「日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉という図式だ。マスコミも意図的に、そう演出していた。打倒する相手は、自民党の政治家だったわたしの父や祖父である。とりわけ祖父は、国論を二分した一九六〇年の安保騒動のときの首相であり、安保を改定した張本人だったから、かれらにとっては、悪玉どころか極悪人である」(『新しい国へ 美しい国へ完全版』) あの60年安保の時、祖父の岸や母の洋子にはある悲愴感すら漂っていた。大量の警官を国会に導入し、新安保(改定安保)を自民党単独で可決した瞬間、国会に向けた全国の安保阻止闘争は臨界点に達した。 新安保の強行採決(5月20日未明)を巡り岸は、「手続きが異常であることはだれの指摘をまつまでもなく、全員承知の上で踏み切らざるを得なかったのである。いわば、選択の余地はほかになかった」(『岸信介回顧録』)と、異常な採決だったと当時を述懐している。 一方、洋子は、東京大学文学部四年生・樺美智子(22歳)が圧死(6月15日)した報に接し、「突然、鉛のオモリを呑まされたような目まいと吐き気を覚え、恐ろしくなりました。もう安保なんか放り出してほしい、(岸が)たったひとりでそこまで国の責任を背負ういわれはないでしょう、と叫びたい思いでした」(「父 岸信介の素顔」)と生々しく語っている。60年安保は、この国で不幸な出発をしたと思わざるを得ない。 しかし、晋三の視点はあの時代をくぐり抜けた岸や洋子と微妙に異なる。 「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。 間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか。長じるにしたがって、わたしは、そう思うようになった」(『新しい国へ』) 晋三の原点はそこにある。幼い目で南平台の岸邸の窓から見た「岸打倒・安保反対」に拳を振り上げる群衆の中から岸が「A級戦犯の容疑者」「安保反動の権化」「政界の黒幕」と呼ばれることに反発しながら、政治の道に入ったのである。 晋三が靖国神社を参拝する背景には、「一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である」(前掲書)との考えがあるからだろう。そこにはA級戦犯容疑者として獄に繋がれた祖父・岸の汚名を晴らそうとする「戦犯の孫」の意志が見てとれる。 晋三にとって岸は政治のシェルパ(案内人)であり、岸がなし得なかった憲法改正の宿題を孫の自分がなし遂げようとする意志が見え隠れする。しかも見過ごすことができないのは、晋三が政権の座にあるということは、岸の娘・洋子が岸家の伝道師として晋三の陰にいるということでもある。 <司令塔としての安倍洋子> 総理の小泉純一郎がまだ49歳の晋三を自民党幹事長に抜擢したのは、03年9月の第二次改造内閣の時だった。 洋子の父・岸信介は、結成されたばかりの自民党初代幹事長(55年11月)、夫の安倍晋太郎は竹下登内閣の幹事長(87年10月)と、三代続いて幹事長が生まれたのである。前代未聞のことだった。ある意味、政治家の家系の極みで、三代の陰でそれを見続けた洋子は、昂奮した面持ちで雑誌のインタビューに応じていた。 「晋三の携帯には次から次へと電話がかかってきて、何事かと思ったんですけど、それでも晋三は言わない。そうしたらお手伝いさんが走ってきて大きな声で、 『晋三さん、幹事長ですって!』 と言うんです。ビックリしましたけど、すぐには信じられませんでしたね。 前に、中曽根裁定で次期総理が夫(晋太郎)に決まったと時事通信が打った時があったんです。昭恵さん(安倍晋三夫人)が外国にいた寛信(晋三の兄)に電話しようとしたので、私は止めました。政治というのは土壇場で何が起こるかわからない。正式に決定するまで、誰にも言っては駄目なんですよって」(『WiLL』06年11月号) 戦後最大の政治闘争を生きた岸の娘として、そして息子・晋三の司令塔として生きている覚悟を窺わせる言葉だ。さらに洋子はこうも語っている。 「晋三が幹事長になる、と聞いてまず初めに思ったのが、晋三の身体のことです。父や夫を見ていて幹事長がいかに大変だったのか知っていますからね。晋三はこれまで神戸製鋼時代も、政治家になってからも一度入院したことがある。あの激務に耐えられるかどうか心配でした。 まぁこれは、昨年(注・03年)の衆院選挙で百八十ヵ所以上まわったところを見ると、もう大丈夫そうですね」(前掲書) しかし洋子の不安は的中する。晋三が総理に就く(06年9月)ものの、松岡利勝農林水産大臣(当時)の自殺や後任の赤城徳彦の事務所費問題による辞任などが相次ぎ、最終的に潰瘍性大腸炎を理由に総理を辞任した。 振り返るに洋子は、父・晋太郎の後を継いだ晋三の出馬(93年)に合わせるように著した『わたしの安倍晋太郎』の中で、晋三に流れる政治家の血についてこう綴っている。 「政治の道の跡継ぎとしての晋三は、主人が、安倍寛と岸信介の信念に生きる芯の強さというものを見てきたように、安倍晋太郎のことはもちろんずっと見てきていますし、安保のときの岸信介のようすも子どもながらに見ております。安倍寛の血といい、岸信介の血といい、なにかのときには命がけで事に当たるというきびしさは、ものの本で読んだというのとはまた違って、身近な空気として体得しているということはあると思います。その覚悟ができていて政治の世界に飛び込むのですから、わたくしに異存があるはずもございません。 ただ、主人が幼時から育ってきた体験にくらべ、物心ついたときには『総理の孫』として育っていた晋三には、まだまだこれから何事にも初めて知ることが多いはずで、それが、わたくしの案じているところなのです」 さらに洋子は晋三が幹事長に就いた当時、彼の性格から政治家の資質をこう見抜いていた。 「ちょっと晋三の姿が見えないと、主人は『どこに行ってたんだ。秘書なんだからしっかりしなくちゃ駄目じゃないか』と叱っていましたが、それだけ気になっていたのでしょう。 『俺も甘いところがあるけれど、晋三も俺に輪をかけたようなところがあるからな』とも申しておりました。 晋三にも強情っ張りな、頑固なところがありますけど、気持ちの優しい、情にもろい一面があります。しかし、難局にあたって、自分の信念を貫くためには、ちょうど父が安保のときに示したような決断、勇気が必要になる。主人はそこを言いたかったのでしょう。 (中略) よく『晋三さんはお父さんの晋太郎さん似ですか、お祖父さんの岸さんに似ていますか』と聞かれます。私からみると、『政策は祖父似、性格は父似』でしょうか。晋三もせっかちで、演説させても早口でしょう。このごろ、わりにゆっくり話せるようになりましたが、政治家になって最初の頃は『あなた、早口過ぎて、お年寄りの方には聞き取れないわよ。それにあんまりキョロキョロしないように』なんて注意していました」(「息子・安倍晋三」) 洋子から見て晋三の政策が岸信介似という指摘は、その後の晋三の政治姿勢を考える上で非常に興味深い。洋子が、マスコミに対し、息子の晋三についてこれほど心情を吐露したことはほとんどない。洋子は晋三の幹事長就任の日、仏前に手を合わせたという。 安倍家の縁戚によると、洋子は寛信・晋三の兄弟が成長するにつれ、「男は何かやるなら政治家。政治家になるなら総理を目指すべきだ」と時に口にしていたという。 <角栄との因縁の対決> 晋三が初当選した93年7月の総選挙は、自民党が過半数割れで、社会党(当時)が減り、新生党と日本新党が躍進し、長年にわたった自民・社会主導の五五年体制が崩壊した年でもあった。 その後、細川護煕を総理に仰いだ非自民連立(八党派)政権が樹立されるも、政権で采配を振る陰の主役は小沢一郎だった。小沢といえば言うまでもなく田中角栄が師であり、角栄の肩越しに政治を見て育った政治家である。かつてその角栄の台頭を敵対視していたのが岸だった。洋子が記している。 「わたくしの知るかぎり、父は過去に二回だけ、見るに忍びないほど落胆した表情を見せたことがあります。一つは安保改定のときにアイゼンハワー大統領の訪日が中止になったときで、もう一つは昭和四十七年の総裁選で福田赳夫先生が田中角栄さんに敗れたときです。この総裁選は、佐藤(栄作)の叔父が兄弟宰相を実現し、七年八ヵ月の長期政権を担当したあとでしたが、父は政策集団の後継者の福田先生が勝つことを信じていたのです。 『総理というのは、ほかの大臣になるのとは違って、だれにでもなれるというものではない。田中は優秀な男だが、人には向き不向きがある。彼が総理になるようじゃ、日本の国はたいへんなことになるよ。彼が総理になるなんて考えられない』と、父は言っておりました」(『わたしの安倍晋太郎』) 岸信介と佐藤栄作という兄弟宰相を輩出した類稀れな閨閥と、馬喰の倅で尋常高等小学校卒業の学歴しか持たず総理にまで上りつめた角栄。岸の来歴からすれば、角栄は語るには論外の、ただの一兵卒だったかもしれない。 一方、岸の流れを汲む福田赳夫もまた一高・東京帝国大学法学部出身の大蔵省エリート官僚だった。その福田が総理の座を争って角栄に敗れ、その後政権を持ったもののその任期が76年からの2年間に過ぎなかったのはなぜだろうか。 角栄が「闇将軍」と畏れられたのは、自民党で群を抜く数とカネで形成した権力を持っていたからだ。しかし、それだけで人心は掴めるものではない。たとえば、角栄は料亭に出向くと運転手、仲居、下足番に至るまで分け隔てすることなく心づけを欠かさなかった。いくら権力やカネがあったからといって、そうそうできることではない。角栄はまわりに言い聞かせていた。 「料亭なんかに行って、不愉快なことがあっても、下足番のおじさんや、仲居さんに絶対あたっちゃいかん。彼らは仕事として我々に接しているのだから、何も言えない。弱い立場の人は大事にしなくちゃいかん」 世間の裏や暗さの辛酸を舐め、人生の術を独学で習得し地べたから這い上がってきたからこそ口をついて出る言葉だった。角栄の人間性、人を惹きつけてやまない人との紐帯はそこに窺える。閨閥や学閥だけでも仰ぎ見られるような存在だった岸信介、福田赳夫には掴みとれない角栄独自の人間性だった。そこに岸・福田が角栄に敗れた理由のひとつがあったように思える。 実は、岸と角栄は政治の世界以外に、ある女を巡って因縁があった。 角栄には子をなすまでの愛人が二人いたことはよく知られる。一人は角栄の金庫番で「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭子で、昭子は角栄との間に一人娘・敦子をなした。もう一人は、東京・神楽坂の芸者だった辻和子で、角栄との間に二男一女をもうけた。男の子は京と祐といった。 戦後間もない46年のことだった。その辻が「円弥」という芸妓名で座敷に出ていた19歳の時、田中土建工業を興し戦後の土地ブームで飛ぶ鳥を落とす勢いだった角栄と知り合う。 「円弥」こと辻和子は、持ち前の美貌と才覚で、最盛期で600名の芸者衆がいた神楽坂の花柳界で売れっ子になっていく。角栄は47年4月、衆院議員に初当選し法務政務次官に就任(48年)。辻は角栄の援助を受けながらも座敷に出ていた。 二度目の総選挙(49年1月)から後のことだった。岸信介から「一心」と墨書された幅一メートルもある額入りの書が置屋に届けられたのである。「岸先生から円弥さんに」という伝言があった。 その頃の岸は48年に巣鴨プリズンを釈放後、東京・銀座に箕山社という名の事務所を設立し政界復帰に向け活動を再開している。辻はその岸の座敷に数回呼ばれたことはあったが、書をもらうほどの親しい関係ではなかった。その一件を辻は角栄に隠し通した。ところが、その後も岸は彼女に言い寄ってきたのだった。 辻の知人によると、岸は辻にこう言って口説いたという。 「絵画を一枚やるから、俺の女にならないか」 岸の申し入れを、結局辻は断った。後年、辻は先の知人に「冗談じゃないわよ。絵一枚で口説くなんて」と苦笑しながら語っている。岸が角栄を評し、「彼が総理になるなんて考えられない」と手厳しく語っていた背景には、このような知られざる秘話もあったというのは穿ち過ぎだろうか。 <小沢一郎の転落が招来したもの> 一方、政界の一線から退いた福田は、岸の娘婿である安倍晋太郎を総理総裁候補に担ぐ。しかし、晋太郎は悲運にも志半ばでガンに倒れた。福田が旗揚げした派閥・清和会が独自に政権を獲るには、森喜朗(00年)を除けば01年の小泉純一郎の登場まで35年も待たなくてはならなかった。そして、小泉はまだ49歳の晋三を自民党幹事長に指名し、総理(06年9月)にまで引き上げたのだった。 しかし前述したように、松岡利勝農林水産大臣とその後継大臣の赤城徳彦らの「政治とカネ」の問題が響き、07年7月の参院選で自民党は27議席も減らし、惨敗。晋三は総理を退いた。 その後の総選挙で、事実上小沢一郎が率いる民主党に敗北(09年8月、民主党308、自民党119議席)、政権交代が引き起こされた。岸信介の孫・晋三と角栄の秘蔵っ子として育ち、長い間、政権を牛耳ってきた小沢との因縁の対決は、とりあえず小沢が制したのである。 ところが舞台は再び一転する。 12年7月、消費税増税を巡り小沢は時の野田佳彦政権と対立。小沢は彼に同調する約50名を引き連れて離党し、民主党は分裂した。 この分裂劇の狭間で世に出たのが『週刊文春』(12年6月21日号)に載った拙稿「小沢一郎 妻からの『離縁状』」である。政権交代の立役者だった小沢は、和子夫人が綴った「離縁状」によって一気に窮地に陥る。 そこには小沢の愛人である料亭の元女将のもとに20歳を過ぎた小沢の隠し子(男の子)が存在し、それを巡って小沢から〈あいつ(元女将)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる〉などの言葉を投げつけられ、一時は自殺まで考えたことなどが綴られていた。 そして、小沢が東日本大震災の被災地となった故郷・岩手の人々を顧みず、それどころか原発事故による放射能被害を怖れて東京から真っ先に逃げ出そうとした姿に触れ、〈こんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています〉と、十一枚の便箋に赤裸々に告白していた。 私は驚愕した。小沢が角栄の仲立ちで和子と結婚したのは73年10月のことだ。それから三人の息子をなし、40年近くも連れ添った和子が、小沢という人間の本性を白日の下に晒したのである。 小沢の虚像は剥げ落ち、陰の主役の座から滑り落ちた。それは自壊と言うべきもので、離縁状の放った一矢は、ギシギシと音を立てて歴史の歯車を回した。当時東日本大震災から1年余りにもかかわらず、日がな政争に明け暮れる民主党政権に一石を投じ波紋は広がった。 民主党分裂と小沢の瓦解。その敵失に乗じて、晋三を総裁に仰ぐ自民党は12年12月の総選挙で圧勝し(自民党294、民主党57議席)、政権交代劇はわずか3年3ヵ月で潰えた。角栄の軛は、岸の孫・晋三の代で小沢が瓦解することで解かれたのである。 <洋子は父の無念を息子に託す> それから2年経った14年11月。晋三は衆議院の解散に踏み切った。1ヵ月後の総選挙で、政権与党の自民党291議席・公明党35議席の計326議席と、定数の3分の2(317)を上回る議席を獲得した。 国会による憲法改正の発議には、衆参両院で3分の2以上の賛成が必要だ。自公で衆院は3分の2を維持したものの、参院の3分の2(162議席)には28議席(議長を除く)足りない。 総選挙投開票の夜、テレビ東京の番組に出演(電話)した晋三は、ジャーナリスト・池上彰が「憲法改正が視野に入ってくる。やはりご自身の手で成し遂げたいか」と問うと、こう答えた。 「国民的な必要です。3分の2の勢力をつくったとしても国民投票で過半数の支持を得なければなりません。そこから理解を得ていきたい」 池上が再び、「憲法改正に向けて一歩一歩進めていくということか」と質すと、晋三は「そういうことです」と応じた。 祖父から孫に引き継がれる念願の憲法改正。国が岐路に立つ時に岸信介を意識する晋三を見ていると、彼の心の拠り所には波瀾に富んだ岸信介の生涯と、それを伝承する生き証人と言うべき岸の娘・洋子の存在が重きをなしているように思えてならない。 御殿場に居を構えた岸は、『岸信介証言録』の中で、インタビュアーの原彬久から「もう一度総理大臣をやりたいとはお考えになりませんでしたか」と問われ、こう答えている。 「いや、そりゃあね、もう一遍私が総理になってだ、憲法改正を政府としてやるんだという方針を打ち出したいと考えたんです。私が総理を辞めてから、あまりにもだな、池田(勇人元総理)および私の弟(佐藤栄作元総理)が『憲法はもはや定着しつつあるから改正はやらん』というようなことをいってたんでね。 私が戦後の政界に復帰したのは日本立て直しの上において憲法改正がいかに必要かということを痛感しておったためなんです。だからこの改憲気運をもう少し盛り上げる必要があった。 憲法の『定着』をいまの鈴木(元総理)もいうてるけど……。いまの憲法がどのようにしてできたのか、その内容がどういうものであるのか国民は関心がないというよりは、知らないんだよ。この憲法があれば戦争がないのだと思っているが、そんなものではない。憲法を改正したら戦争になる、というのではないんだ」 憲法第9条(平和主義)の第1項(戦争の放棄)、第2項(戦力の保持、交戦権の不認)を軸にした改憲に、岸は並々ならぬ意欲を抱き、その志を遺していった。 東京・永田町の議員会館の晋三の部屋に置かれた屏風に、ある墨書がしたためられている。 「逢龍」 12年辰年の初頭、洋子がわが子、晋三に「昇り龍に会えるように」と筆を取ったもので、その年の師走、晋三は二度目の総理に就いた。未完で終わった岸の憲法改正を洋子は息子の晋三に託そうとしている。 一方で、洋子を中心軸に岸から晋三に繋がる脈々とした血族の傍流というべき存在が安倍晋太郎、安倍昭恵、岸仲子らのように思える。三人とも、岸が頂点の閨閥の流れから見れば他人だった。そこには彼らのもう一つのドラマがあった。                                              わたし(横田)は、安倍晋三首相が「絶頂の一族」との大きな錯覚から、憲法改正をやり遂げようとする考えには反対です。同時に日銀の黒田総裁は、金融緩和のための国債買い入れを進めて、もうすぐ日銀破綻まで来ています。今、世界が大変革にあります。米、欧、中国・・・は、景気の成長を目指してきましたが、これからは安定期から衰退期に入ります。日本は、20数年前から安定期から衰退期に入っています。安倍首相が退陣して以後、早く本当の実力者が首相になることを期待します。バブルがはじけて1990年以来、本当に新しい時代がやっと来るのです。
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