リチャード・バック著『かもめのジョナサン』(新潮社、1974年)
この本は、わたし(横田)が20代初めに出版されました。なんと五木寛之が訳しているのです。その五木寛之が訳者であるにもかかわらず『かもめのジョナサン』の後半になって体質的に合わないといっているのです。
あらすじです。
カモメのジョナサン・リヴィングストンは、食べることよりも空を飛ぶことに生き甲斐を感じる。群れの他のカモメが食べ物を漁っている間も、より速く飛ぶ方法を研究している。飛ぶことは自由になることであり、それこそが真の生きる意味だとジョナサンは考えているのだ。そんなジョナサンはやがて、規律を乱すとして群れを追放される。ジョナサンはひとりになっても飛行術の修業に明け暮れた。
ある日、輝きを放つ二羽のカモメがあらわれる。そして彼らはジョナサンを「もっと高いところ」(天国、真のふるさと)へと連れて行った。天国でジョナサンはまったく違う飛行法を学んだ。そして彼はついに瞬間移動もできるようになる。真実を見出したジョナサンは、地上にいるカモメに自分の知った真実を少しでも伝えたいという気持ちになっていった。そしてそれは愛の証明だと思えた。
天国から帰ってきたジョナサンは、若いカモメに飛ぶことと飛ぶことの意味を教える。そして教えられることは教えた時点で、フレッチャーというカモメを後継者に任命し、自らはどこか別の場所に行ってしまった。
飛行法を会得したジョナサンは「愛」という名の「伝道」をはじめたのです。地上に下りて若いカモメに飛行をすることの意味を説きはじめようとしたのです。この時点でジョナサンは「完全なカモメ」であり、他のカモメよりも数段上の状態ということになっています。ジョナサンは以下のように説いています。
「それは目に見える形をとった、きみたちの思考そのものにすぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる・・・」(82頁)
「彼はごく単純なことを話した――つまりカモメにとって飛ぶのは正当なことであり、自由はカモメの本性そのものであり、そしてその自由を邪魔するものは、儀式であれ、迷信であれ、またいかなる形の制約であれ、捨てさるべきである、と」(90頁)
精神の解放を説く、現代神秘主義が使いそうな言葉です。ジョナサンは地上では「神」や「悪魔」として見られたのです。彼自身はそれを否定しますが、どこか神秘主義的な印象はぬぐえないものだったのです。
巻末で、訳者の五木寛之自身が本作品の感想を書いているのだが、そこにはこう書かれています。
「私はこの物語が体質的に持っている一種独特の雰囲気がどうも肌に合わない」(108頁)。
彼はその感覚が「高い場所から人びとに何かを呼びかけるような響き」から来ると分析しています。
「それは異端と反逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的であり、冒険と自由を求めているようでいて逆に道徳と権威を重んずる感覚である」(108頁)。
五木寛之のこの違和感の理由を考えたのです。
ひとつは上に挙げた神秘主義的雰囲気である。もうひとつは、神秘主義的宗教性とも関わるが、この作品の世界には、食べるか飛ぶかしか許されていないという閉塞感です。
ジョナサンは食べることよりも飛ぶことを重んじたのです。しかし、より高く飛ぶものは天国に行けて、食べることしか考えていないカモメは地上に縛り付けられるという価値観には納得がいかないのです。両方とも生き方としては等価値であり、どちらを選ぶかはカモメの適正や嗜好によると思うからです。
一見、異端と反逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的だとこぼす五木寛之の違和感はここに由来するのです。
わたしは、神秘性、特に、70年代アメリカ西海岸で流行した精神的な雰囲気を感じたのです。リチャード・バックはカリフォルニア州で育っています。解説には、本書がヒッピーたちの愛読書だったと書いてありました。
さっそく70年代アメリカ西海岸のサブカルチャーをネットで探していると『かもめのジョナサン』が当時の反体制運動と神秘主義の要素を持っていると紹介されているのです。
70年代アメリカ西海岸で起こった現象は、禅、ヨガというような東洋の産物を積極的に受け入れたのです。これは、最初は自己の飛行法の向上だけを目指して天国に行ったジョナサンが、地上でも伝えたいと考えたのと同じだったのです。
ところで、ヨーロッパで金融恐慌が吹き荒れています。それが、すぐに世界大恐慌に移り変わります。恐慌に流されない工夫を、今までにやってきた人とやってこなかった人と、大きな隔たりが生まれてきます。