吉本隆明著「最後の親鸞」のつづきです。
<一遍の偉大さ>
一遍は病気ですが、偉大な僧侶だなとおもわせるところもあります。なぜかというと、こんなことを言っているのです。ほんとにいい念仏往生とは何かというと、それは妻子をもって、それから家ももって、財産ももって、それでもって念仏を称え往生するというのが、いちばんいいんだと言います。上根だということです。二番目にいいのは、妻子はもたないけれども、財産はほどほどにもち、住む処ももち、というのが中くらいにいいんだ。それでいちばん悪いのは、じぶんのように無一物になって執着をすてないと、念仏往生ができないようなものだ、一遍はそう言います。じぶんはじぶんが駄目な人間だと知っているので、何かもつと往生できないと思うから、もたないようにしているという逆説を一遍は語っています。現在にも通用する一遍の偉大さは、そういうところにあるとおもいます。
<死の最も偉大な専門家、親鸞>
ぼくなんかがいちばん偉大だとおもっているのは、親鸞という人です。どうしてかというと、病気でないからです。病気じゃないということと、それからごくふつうの人の<死>ということが、じぶんの考え方のなかにちゃんとひとりでに含まれているということがとても重要だと思います。親鸞の思想が存在しなかったら<死>の専門家とぼくらとをつなげる橋をかけることができないとおもいます。ぼくは親鸞がいちばん偉大な<死>の専門家だなとおもっています。
<蓮如ー親鸞思想の通俗化>
話の内容は、親鸞のめがねを通して見た蓮如ということになるとおもいます。ですから蓮如を否定的にとらえる話になってしまうのではないかとおもいます。日本の浄土宗の眼目である十八願にたいして蓮如はとてもいい理解を示していますが、「在家止住のやから」という限定をつけています。こういう限定は親鸞にはないのです。つまり教団から(蓮如は)ものを言っていることを意味しているわけです。そういうところに蓮如の洞察力のおよばなさがあらわれています。蓮如は(輪廻転生を)実体化しています。しかし、親鸞は一度もそういう言い方はしていません。
<新新宗教>
幸福の科学:大川隆法「太陽の法」
統一教会:「原理講論」
オウム真理教:麻原彰晃「生死を超える」
読むたびに感じる印象は、一種奇妙な、ある意味で病的、ある意味で読む人間の心を打つ衝撃的な世界だということです。特徴はふたつあります。ひとつは、どの主張を読んでも、一種の早道を通っている感じがします。それは直線コースを通っているという意味ではなく、ある地点からある地点へ到達するのに、大なり小なり短絡路を通っているということです。宗教と思想の大道をまっすぐにすすんで到達したという印象よりも、とにかく到達することが目的で、遮二無二でも到達しようとしています。ですから、どこかで短絡しているという印象です。もうひとつは、いいことを言わなければ宗教になりませんから、やはりいいことを言っているということです。その「いいこと」の内容に立ち入ってみると、とにかくいいことを言っている。そのふたつがとても強烈な印象です。
吉本隆明は、親鸞・一遍・蓮如を通じて誰でもよくわかるように書いたように思います。親鸞は、浄土は具体的にはないと言っていますし、阿弥陀仏も人間のように目鼻があってというようなことを否定しています。無上仏は形のないものだが、人々を無上仏にまでもっていきたいために、阿弥陀仏というのはあると書いているのです。
ところが、新新宗教(幸福の科学、統一教会、オウム真理教)は、読む人間の心を打つ衝撃的な世界だと吉本隆明は言っています。しかも、結論に導くために、短絡路を通っているというのです。
わたし(横田)は、20年ほど前に、大川隆法「太陽の法」を読みました。わたしの友人が家業の経営者を突然やめて、幸福の科学に入ったのです。今でも、その友人は幸福の科学で仕事をしています。3年前の衆議院選挙に幸福実現党の候補として立候補したのです。その友人の街頭演説をyoutubeで見ると、経営者として活躍していた頃と、幸福の科学に入った以後と大きく分かれるのです。その友人の経営者としての活躍は、わたしと一緒に経営者仲間を束ねようと話し合いを何度もしていたことをなつかしく思い出されます。
大川隆法の著作は、常に「結論」を持っているのです。わたしの友人は、「結論」を大川隆法に求めて幸福の科学に入ったに違いありません。
わたしなら、結論を「自分自身で苦労して導き出す」ことと、「未来への展望」はこうなるに違いないということなどに「生き甲斐」を感じているのです。